他者への配慮
:無月 堅城他者へ配慮する、当たり前のようですが、簡単ではない、と考えています。
たとえば、自分とまったく価値観が違う人の発言を訂正させたくなりませんか?でも、訂正させたい自分の言い分は、本当に正しいのでしょうか?本質が見えていないのは、もしかしたら自分の方ではないのでしょうか?
私自身、自分の性格や信条、人生観とは結局どうなのか、そして、他人から自分はどうみえているのか、意外とわかっていません。
まして、他人に見えている景色が自分には、正確にわかるわけでもありません。
ちょっと比ゆ的な話をします。
< 私は自宅でAさんと向かい合って話しています。Aさんは、私の頭上の照明器具が今にも落ちそうなのに気づいて私にそのことを告げます。しかし、私はそんなはずがない、だって私の照明器具は頑丈にできているんだから、という信念のもとに頭上を観ようともせず、聞き入れません。 >
この場合、Aさんは状況を正しく理解しています。そして、私はAさんに見えている景色が自分に見えている景色と違うということを理解していないために、危機に陥っています。
実際には、ちょっと頭上を見れば済むだけの話ですから、こんな例のようなことはあまり起きないでしょう。でも実際生活の中では、よくあることではありませんか?
自分からは死角になって見えない場合、自分の位置を変える必要があります。しかし、時に人は、誰かに指摘されて位置を変えるのが嫌なのです。
若者が優先席に座っていた、だからけしからん、というのが簡単には言えないのは、ちょっと考えればわかります。彼(彼女)はなんらかの心身の障害があるか、急病かもしれません。要は「自分には今すぐわからないが、何か事情があるかもしれない」という気持ちを働かせれば、理解可能なことなのですが、その発想がなかなかできないものです。
「何か事情があるかもしれない」
他者への配慮は、そこから始まる気がします。
コメントを残す